【15】
 
 

 海を臨む絶壁の上、座り込んで白い靴下を履きながら、蓮見涼子は、口元が笑いの形に歪むのを抑えきれずにいた。上手くいった。思惑通りだった。つま先でととんっと地面を小さく蹴って靴を履く。その足元には、涼子のものではない靴が一足履きそろえられていた。その靴に向かって、涼子は笑む。
「あたしを好きになってくれて、ありがとね、悠くん」
 それはほんの数分前まで、確かにここに存在していた野々山悠のものだった。
 
 
 そこは南の端。
 伊豆半島の南の先端に位置する岬から見る景色は、観光案内ブックにもよく登場する絶景だった。太平洋を臨むその美しさは、なるほど観光の名所でもあり、また自殺のそれでもあった。足元を覗き込めば数十メートル下、紺碧の水面が絶壁に打ちつけており、白い波しぶきがあがっている。じっと見ていると背筋がひんやりとしてきて、平衡感覚が失われそうになる。
 悠は足の力が抜けそうになり、ぶるっと小さな身震いをした。それを感じ取ったのか、悠の半歩後ろにぴったりとくっついていた涼子が、小さく言った。
「怖いよ、悠くん」
 悠の背中に添えられた手が、ぎゅっと彼のシャツを握り締める。肌に感じる彼女の震えと熱――振り向いたそこには、もう少しで雫が溢れそうな潤んだ瞳。それを見た瞬間、どこからか、不思議な力が湧いて来た。ふたりで話し合って決めたことを、実行する力だ。
 
 出発後悠はすぐに、付き合っている涼子を待つと決めた。これからどうするかなんてわからなかったが、とにかく、一緒に居たいと思った。どこで待とうか考えながら、朽ちかけた下駄箱の並ぶ昇降口までやって来ると、来客用のスリッパ入れが目に付いた。駆け寄って扉を開けると、ちょうど人ひとり入れそうな大きさだった。悠は乱雑に残されたスリッパを慌てて掻き出し、中に隠れて涼子を待ったのだった。
 結果、ライフルを携えた夏目明日香を見送ることに成功し、悠然とガムを噛みながら歩く平井伸忠にも見つかることなく、無事涼子と合流できた。
 悠がスリッパ入れから飛び出して涼子に声をかけると、彼女は一瞬驚いたが、すぐに「嬉しい」と涙を見せて喜んだ。涼子を待つ間、銃声を聞いていたこともあって、悠は彼女の手を引いて、すぐに駆け足でその場を去った。
 ジョギングほどの速度で走る間、悠が地図をチェックしていると、涼子は虫が沢山いるから森は嫌だと言い、海の見えるところに行きたいと言った。
廃校からかなり離れた頃、もう歩こうかと悠が提案したが、涼子は首を横に振った。「怖いからこのまま走り続けよう」陸上部に所属し長距離選手である涼子にとって、走ることは何の苦にもならないのだ、悠はそう思い了承した。それでも走りながら話すのは少々たいへんではあったが、これからどうしたらいいか、どうしたいのか、2人は話し合った。
 涼子は顎を引いて視線を足元に落とし、真剣な目をして言った。「殺し合いなんかしたくない」と。その切なげに思いつめた涼子の横顔を見たとき、悠は覚悟を決めた。
 二人一緒に、このゲームを放棄しよう、と。


「大丈夫。俺がずっと一緒だから」
 悠はずいっと一歩前に出た。岬の先端に、さらに近づいた。 あと半歩で、体は重力に従い水面へと吸い込まれてくれるだろう。ごくり、唾を飲んだ――怖くなんて、ない。
 悠は、まるで他人の足のようにいうことを聞かなくなった自分の足に力を入れた。あと一歩、踏み出す勇気があればいい。地面ではなく、数十メートル下に光る水面へと身を委ねるだけでいい。今の悠にとって、こんな馬鹿げたゲームから涼子と一緒に退場できることが、唯一で最良の道だった。
 足元から聞こえる波音はなぜか穏やかで、これから2人仲良く身を投げようというカップルの最期の会話が終わるのを、静かに見守っているように思えた。
「行こう、涼子」
 覚悟を決めたというより、脳が正しい判断を下せなくなっていたというほうが正解だろう。悠は身体の震えを抑えることができないまま、不安定な操り人形のように足をあげた。
「うん」
 背中に感じる涼子の体温と重み。悠は最期の一歩を踏み出す。すると、たった今まで感じていた、わずかに引かれるシャツの愛しい重みが、消えた。代わりに、どんっと強い力で背中を弾き飛ばされる。
「っ?!」
 何が起きたのかわからず、悠は体制を崩しながら振り向いた。微笑む涼子がいた。制服のスカートが崖から吹き上げる風に揺られている。空中に投げ出されたのは、悠の体だけだった。
「ばいばい、ゆうくん」
 涼子の唇がそう動くのを、悠は流れる景色の中に見た。声は出なかった。ただ、一瞬のうちに色んなことを思った、考えた。
 放課後、下駄箱の前で「好きだ」と言った俺に「あたしも」と照れくさそうに微笑んだ君。くせのある可愛らしい文字で綴った、君の気持ちが詰まった手紙をいくつももらった。2人きりのときは君から手を握ってきてくれる。なのに、授業中に目が合うと恥ずかしそうに笑う君――たくさんの思い出が悠の瞼に浮かんでは消える。
先端から痺れていく悠の身体の真ん中から湧き上がる、ひとつの答え。内側からも冷えていくその強烈な感覚に比例するようにして、恐怖は薄れていった。
 
 ああ、そうか。そのすべてが、本物じゃあなかったんだ。君はやっぱり、龍吾が好きだったから。
 
 悠が何度も何度も打ち消した、本当の事実。
 龍吾と並んで歩く涼子の後姿を見た。あれは確か、君の誕生日。
「これから友達と約束があるから、またね」
 俺からのプレゼントを嬉しそうに抱えて「本当にありがとう」と喜んでくれて、なのに、君は、友達なんかじゃなく龍吾との約束に出かけて行ったんだ。
 俺にするのと同じように、龍吾の手をそっと握る君の手。視界が滲んで、親しげに寄り添う君の笑顔がすぐに見えなくなった。
 そしてもうひとつ、これこそ心の奈落に捨てたはずの記憶の断片――暑い夏の日、教室に残る龍吾と涼子の姿。ドアの陰に隠れて聞いたのは、お互いが別の人を好きだと告白し合う場面。
「あたしが好きなのは、悠だよ」
 耳に残る涼子の声。思いがけず自分の名前が出てきたときは、とてつもなく恥ずかしくなって、その場を逃げ出した。だから告白できたんだ、君が俺を好きだと知っていたから――そんなこと言えるはずもなく、今までずっと押し込めてきた小さな後ろめたさ。
 そう、それは嘘だった。全部、涼子がついた嘘だった。悠がかつて忘れたはずの光景が蘇って――すべては一瞬だった。
 悠の身体が岸壁から投げ出されて、海面から突き出た岩にその身を打ち付けるまでの、ほんのわずかな時間に巻き戻されたすべてが、彼自身を、その内側から嫌というほど切り裂いていた。悠の身体が複雑に入り組んだ岩と波に揉まれたとき、もう彼の意識はそこになかった。
 
 
 涼子はスカートについた砂を落とすためにぱんぱんと軽くはたいて、くるり踵を返した。ついさっき、溢れんばかりの涙を溜めた瞳はまだ潤んでいたが、そこになんの未練もなければ、罪悪感もなかった。
 シナリオ通り演じ終えた達成感に、涼子は満足していた。これまでの人生、何度も小さな演技をしてきたけど、今回のがやっぱり一番の大舞台だったかも。
 揃えられた靴の脇に置かれた悠のデイバッグを開けて遠慮なく中を物色する。
「何これー。あたしの武器の方がよっぽどいいじゃん」
 悠に支給された武器は、鉄製のまきびしだった。そう、時代劇で忍者が逃げるときに道へばらまくような、あれだった。
 涼子は一応そのまきびしを含め、水や食料など必要なものだけを手際よく自分のデイバッグに移した。
「悠くんのこと、結構好きだったのはホントだよ。心中は無理だったけどね」
 自分の気持ちを確認するかのように、涼子はつぶやく。そしてまるで何事もなかったかのように身なりを整えた彼女は、悠が消えた断崖をただの一度も振り返ることなく、軽やかな足取りで岸壁から遠ざかって行った。
 その一部始終を、傾きかけた太陽だけが黙って見ていた。
 
 
 


野々山悠 (男子12番) 全身打撲により死亡
【残り 29/32名】
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