【0】
 
 
 ミーンミンミンミーン…
 油蝉の鳴く声と、校庭で遠く響く打球音(野球部だろう)が、聞こえていた。
 
 もうすでにほとんどのクラスメイトが下校した、終業式のあとの静かな教室に、2人は居た。教室の入り口にかかる【2年5組】のプレートが、全開にした窓から吹き込む微風に揺られていた。
 少女と少年が向かい合って座ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。長い夏の日はまだ高く、少女の小麦色した腕のあたりをじりじりと焼き付ける。薄茶色に染め上げられた少年の髪は陽に透けて、金色に光っていた。
 いつのまにかくだらない談笑は幕を閉じていて、なんとも言われぬ雰囲気が漂っていた。お互い言葉が詰まってしまって先が続かない。でも、それでよかった。互いの気持ちが手にとるようにわかるこの時間が、愛しいとさえ思えた。気恥ずかしさと照れが招く、この居心地の悪さも。
 
「ねえ。教えっこしない?」
 沈黙を破ったのは少女の方だった。
「ん。何を」
「じゃんけんして、負けた方が…好きな人を言うの」
 少女には自信があった。まっすぐに自分を見つめるこの少年の想い人が、自分自身であることに。だからこそはっきりさせたかったのだ。長い長い夏休みが始まってしまう前に。
 少年は彼女の気持ちを知ってか知らずか、ひゅっと眉を潜めた後――いや彼もすべてわかっていた、目の前にいる好きな子が自分を想っていることを――ゆっくり優しげに笑った。
「ああ、いいぜ」
 ポケットに突っ込んでいた右手を机の上に出す。少女は照れくさそうに笑いながら、同じようにぎゅうと握った右手を出した。
「いい? じゃーんけーん」
 
「ぽんっ」
 
ぐーと、ちょき。
 
「…あ」
 
 負けたのは、少女の方だった。
 瞬間、浅黒く健康的に日に焼けた肌でさえ、真っ赤に染め上げられたのがわかった。自分から持ちかけたとはいえ、「好きなのはあなたです」なんていう告白、そう簡単に口にできるものではない。だからこそ、今日までずるずるしてしまったのだから。心臓がいつにもまして早く打ち始めて――陸上の練習してるときより、絶対今の方が鼓動が早いよ――少女は思った。そんな彼女の繊細さとは裏腹に少年は悪戯な目をして、この小さくて重大な勝負に勝利したことを喜んでいた。
「っしゃ、俺の勝ち!ほら、言えよ」
 少年の瞳が、彼女を柔らかく包んでいた。一言、言えばよかった。
「あなたが好きです」
 言えば、彼はきっと答えた。
「お前が好きだ」
 これまで何度となく、目で、心で確認しあったお互いの気持ち。それを言葉に出して、形にするだけだった。
「早く言えって。おい?」
 俯いた少女を覗き込むように、少年が首を傾けた。なのに、言えなかった、彼の名前。
「えと、あの。――悠くん、なんだ」
 咄嗟に口からでた、クラスメイトの名前。隣の席の、男子の名前。まだ、このときならまだ、間に合ったのに。
「違うの、うそよ、嘘!ほんとはあたし、あなたが好きなの」
 そう言えたなら良かったのに、その言葉の続きより先に少年が口を開いた。
「へぇ、悠って、野々山悠? ま、お似合いじゃね?」
 その声に含む熱の低さに、少女の背中はひんやりした。
 慌てて顔を上げた少女が見た彼のその目はもう、さっきまで少女を映していたそれとは別のものだった。作り笑顔で見つめ返した彼女から、少年は、すいと視線をそらした。互いを相思相愛だと思って疑わなかったこれまでのときが、一気に失せた瞬間だった。渇いた空気が重く圧し掛かる。
 もう、戻れないかもしれない。少女の胸は初めてきゅうと痛んだ。
「…そ、うかな?」
 この胸の痛みとは裏腹に、平静を装ってしまうのはどうしてなんだろう。
「今俺が好きなのは、1番が奏美でえー、2番が真美ちゃんね。あ、3番も聞く?」
 まるで紙飛行機を飛ばすように軽く、そして無責任にその言葉は放られた。窓の外に向けられた少年の視線はもう少女には戻らなかった。眩しそうに目を細めた彼の、己を拒絶した横顔に、涙が出そうになる。
「ずるいよ、それー」
 言ってみても、責められないのは分かっている。先に嘘をついたのは自分だった。どうして素直になれないんだろう。一言、嘘だよと伝えるだけで、訪れる未来は違っているのに。
 でも心がブレーキをかける。一瞬にして対極に遠退いた2人の距離は、きっともう二度と交わらない。それは、くだらないプライドだったのかもしれない。
「いーじゃん。俺、可愛い子みーんな大好きだし」
 少年は少し控えめに笑った。戻れない時間。気づけば二人は、取り返しのつかない大きな間違いを自らの意思で招いてしまっていた。
 少女はグッと、下唇を噛みしめた。だが少年はその彼女を見ていなかった。もし見ていたのだとしたら、その潤んだ瞳を見ていたとしたなら、何かが違っていたのだろうか。
 
 でも、中嶋龍吾は、その涙を見ていなかった。
 蓮見涼子は、ついてはいけない嘘をついた。
 
 そう、すべては後の祭りだった。
 龍吾は両手をポケットに突っ込んだままゆっくりと天井を仰いだ後、ガタリと音をたてて立ち上がった。もう、涼子を見てはいなかった。
「じゃあな」
「…ばいばい」

 
 本当は、あなたが好きなのに。
 
 蝉の声が掻き消した、別の声。もう誰の耳にも届かなかった。声にならないその叫びは、心の中で重く重くこうべを垂れて、急速に錆びていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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