【00】
 
 
 まさか――こんな巡り合わせがあっていいものか。
 
 麗らかな春。眩しい日が差し込む朝早く、3年5組担任教師朝比奈 岳(あさひな・がく)が呼び出された会議室へ行ってみると、若い男がひとり待っていた。朝比奈は、その男の真向かいにあるパイプ椅子に浅く腰をかけた。男の地味なスーツの襟元に光る小さな桃色バッチを見とめ、彼は激しく嫌悪したが、表情には出さず小さく会釈をした。
「天下の専守予備軍様が、一介の教師風情に何の御用ですか?」
 丁寧な言い回しの中にある棘。男はそれに気づいただろう、ふと自分の胸元についたバッチに視線をやってにやり笑った。
「先生なら、もうおわかりでしょう?」
 20代前半だろうと推測できるその男は、年齢に見合わない何かがあった。落ち着きとも違うそれを全身に纏う彼が、自分と似ている、と朝比奈は思った。たぶんそれは、同じ経験をした者だけに嗅ぎ分けられる匂い。気づきながらも、脳裏に浮かんだ最悪のそれを必死で打ち消しながら、朝比奈は平静を装った。
 おもむろに、男は床に置いていたアタッシュケースを会議机の上に乗せた。そして何やらおごそかな手つきで書類を取り出す。桃印の押してあるなんとも趣味の悪いそれを――口元には薄笑いを浮かべて――朝比奈に向けて差し出した。
「いやなに、簡単なお話なんです。ここにひとつ、認印をお願いしたいと思いまして」
 男が指差し示したそれは、3年5組の生徒引渡承諾書であった。それと気づいた朝比奈のポーカーフェイスが僅かに崩れた。そこでふいに青年がわざとらしくポンと手を打ち、
「ああ、すいません。私、自己紹介するのを忘れてましたね。」
 今の今まで本当に忘れてたかのような表情をしてみせ、頭をかいた。
「私明日から、3年5組の新しい担任になります、とうどう・けいじ、と申します」
 自己紹介をした藤堂 圭司(とうどう・けいじ)という青年は、丁寧に立ち上がって深々とお辞儀をして見せた。それは大いに鼻についた。
「要するに、うちのクラスがプログラムに選ばれた、と?」
 今にも震えそうになる声を低く押さえ込んで朝比奈は言った。
「いかにも! この度は本当におめでとうございます、朝比奈先生にとっても大変誇り高い名誉あることですから」
 藤堂はとってつけたような笑みと短い祝辞を述べて座った。
「誇り高い…あなたもそうお思いですか?」
 ぎゅうと力強く握った拳は机の下に隠し穏やかな口調と裏腹に、朝比奈は強い視線をぶつけて問うた。
「イヤだなあ、先生。私の意見なんか聞いてどうされるんです?」
 藤堂は軽い笑みを浮かべてはぐらかす。
「過去のプログラム優勝者が担当教官になる、なんて少し珍しいと思って、ね?」
朝比奈が彼の腹の底を探るように笑ったが、藤堂の視線は朝比奈のそれとは絡まず、アタッシュケースから取り出した別の資料を興味深げに眺めたままだった。そのうちに、藤堂の眉がぴくりと動いた。
「おもしろいな、ほんとおもしろいよ」
 小声で独り言のように呟いてから、藤堂はやっと顔をあげた。そして、朝比奈を嘲るような表情をしてみせると、今度は逆にしかけてきた。
「先生のお気持ちこそ聞きたいなぁ。十数年の歳月を超えて、“送り出される”側ではなく、“送り出す”立場になるあなたに、ぜひお聞きしたい。ねえ、1985年第6号優勝者の朝比奈先生?」
 2人の共通点「プログラムの優勝者」という見えない絆の、なんという根の深さ。方や専守防衛軍に入隊し、方や教師になるというまったく別の人生を歩んでいたように見えたふたつの道が、よもやここで交わろうとは。いや、果たしてこれが全くの偶然だったのかどうかは、計り知れないけれども。
「最悪の気分だよ」
 言いながら朝比奈は古傷が疼いた気がした。かつてのクラスメイトにつけられた弾痕は、いまも雨の度にその存在を固持し続けていて、過ぎたはずの月日の長さを一気に縮めて苦しめる。そして、たった今もまた。
 藤堂は嬉しそうに朱肉を取り出し蓋をあけてみせた。
「まあ、そういうわけで。先生には面倒な説明がいらなくてほんと助かりますよ」
 ――ああ、先生。初めてあなたの気持ちがわかったような気がする。朝比奈は15年前の担任教師を本当に久しぶりに思い出した。
 どうして止めてくれなかったんだと、どうして身を挺してでも俺たちを引き渡さずに居てくれなかったのかと、何度も何度も繰り返し夢の中でさえ責め続けた彼女のことを、初めて歪まない心でまっすぐに思い出した。
 こんなにも長い間あなたを、行き場のない怒りと後悔の捌け口にしていたことを初めて詫びる気持ちがわいた。修学旅行に出かけたあの日、引率の教師の群れの中、彼女は青ざめた顔をして俯いていた。あなたは俺たちを、喜んでスケープゴートに捧げるような人ではけしてなかったのに。最後に見たあなたは、夏なのに珍しく長袖のブラウスを着ていた。ああ思えば、暴行か何か――されたのかもしれない。藤堂の上着の裾から垣間見えるホルスターに納まった銃を見ながら思った、本当に今さらだけど。
 俺は今日まであの悪夢のすべてを、政府に俺たちを委ねたあなたの責任にして背を向けてきた。クラスメイトを殺すために引き金に込められた指の力も、無抵抗のクラスメイトを後ろから襲ったことも――とにかくあのときの何もかも、すべてをあなたのせいにして。
 心なしかわずかな時間ぼんやりとした朝比奈を今に呼び戻したのは、藤堂の訝しげな声だった。
「先生、朝比奈先生? 印鑑お持ちですよね」
 早く押せといわんばかりに急かす藤堂のそれに、心臓のあたりが冷えた。そうあれはもう、十何年も前に終わった過去の話だ。俺は生き延びらえて今此処に居る。その事実は永久に変らないし、自分の受け持つクラス3年5組の彼等が明日、戦場へと連行されるのも、絶対に変わることのない未来なのだ。たとえここで拒否しても、事態は何も変らず定められた予定は変更も訂正もされない。選ばれた彼等は計画通り拉致されて、間違いなく殺し合いを始めるだけだと知っている。
 朝比奈は長く深く息を吐いた。そして言った。
「今、ハンコ持ってないんで、拇印でもいいですか?」
「もちろんですよ。さすが先生、話が早い」
 藤堂がわざとらしいほどの笑顔を浮かべて頷いた。
 朱肉が、人差し指の爪の中にじゅぶりと染みた。
 
 
 
 
【プログラムまであと、24時間】
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