【13】
AM8:00〜 時間軸をさかのぼること約6時間


 学校に残った朝比奈は、右手にマグカップ、脇には書類ケースを抱え、左手には書類の束を持って廊下を歩いていた。
 3年5組の引率は、副担任が行っている。修学旅行で担任が引率しないというのは珍しいことかもしれないが、週末に控えた県サッカー協会の会議のためという名目で免除された。それが旅行ではなく、プログラムだからという特異なケースだから容易に認められたものだ。
 引渡し書類にサインさえすれば、担任は用無しだった。いざとなったとき、下手に抵抗されたり、生徒に悟られたりする面倒を考えたら、いっそ居ない方がいいという考えもあるようだった。
 
 朝比奈が資料を持った左手で、器用に資料室と書かれたプレートの戸を開ける。同じ手で電気をつけるとき、じんわりと汗ばむ指のせいでぬるりと滑った。
 かび臭いその部屋は、職員室のある1階の廊下突き当たり、ちょうど北の隅にあたる薄暗い場所に位置していた。壁一面に作りつけられた棚に書籍がびっしりと詰まっており、辞書の類も揃っている。古いコピー機が1台とパソコンが2台、そして型古ではあるがレーザープリンターが置かれていて、資料を作成するにはもってこいの部屋だった。
 
「顧問会で配布する資料を作成してきます」
 職員室に残っていた2人の教師にそう告げて、朝比奈はついさっきこの部屋にやってきた。
 時間は午前八時を少し過ぎたところだった。
 職員室から持ってきたマグカップからは、コーヒーの香りと湯気がたちのぼっていた。それをプリントと一緒に机へ置き、持っていた書類ケースを机の下に置いた。
 椅子を引いたとき、プリントが崩れて床に散らばった。
「っと、しまった」
 朝比奈は膝を突き、机の下に滑り込んだプリントや床に張り付いたプリントを一枚一枚拾い集める。その動作に紛れて、机の下に置いた書類ケースからなにやら小さな四角い箱型のハードウエアを取り出すと、おもむろに配線をたぐった。
「さて。ひと足先に俺もゲームスタートだ」
 小さなひとり言を呟いて、配線の先に繋がっていた埃まみれのモデムルーターを、自宅から持ってきたそれとすりかえた。外見も型式もまったく同じものではあるが、内部構造を少々いじってある。万が一のとき、追跡から逃れられる最後の砦だ。
とりあえず念には念を、だ。――何せ、あのクソ政府を敵にまわそうってんだからな。
朝比奈は少し寂しげに、でも穏やかな表情でちらと笑んだ。
 
 何事もなかったかのように、朝比奈はかき集めたプリントを握って立ち上がり伸びをする。背後には、自分を常に映し続けているであろう監視カメラの視線を感じながら。
 
 あの日。
 プログラム担当教諭と名乗る男がやってきたときに俺は、覚悟を決めた。
 あの子たちを引き渡さないと抵抗をしても無駄だ。そんなことで犬死にするぐらいなら戦ってやると決めた。
 ずっと後ろめたかった。生きていること。俺が生きる意味を、生きていてもいいという証を探し続けていた。自分自身さえ失ったあの日から今日まで、探し求めていた答えが見つかるかもしれない。
 “俺が生き続ける意味はあるのか”
 あのときから一度も声にしたことのない言葉が頭をよぎる。煙草をくわえた朝比奈の顔が僅かに歪んだ。
 生徒たちが今、どんな状況に置かれているのか俺が一番よくわかっているはずなのに、のん気なもんだな。
 教え子と教師は、同列に並んだ。
 何年もの時を経た今もなお変わらずにある、スケープゴートという名の列に。視線を彷徨わせた朝比奈の見ている光景は、長く長く続く黒い葬列だった。かつての友人の背に続く、名も知らぬ見知らぬ人たち。そして今まさにその列に加わろうとする教え子の姿。
 体の芯が小刻みに揺れているのは、静かなる怒りと武者震い。炎はまだ消えちゃいない。密やかに、でも力強く灯り続けてきた熱いものは、その勢いを増した気がした。
 
 二台のパソコンから発せられる、鈍いファンの音。
 向かって右のディスプレイには、サッカー協会の会議で配布するために作成している文書が表示されていた。左では、フォーメーションをシュミレートするソフトを起動する。と同時に、大東亜特有の閉鎖されたネットワークから外界へ繋げるための自作プログラムも起動した。数分もあれば、まるでシルクの糸が精密な鋼鉄で出来た柵をくぐるようにして、本来一般人が入り込むべきではない場所へとたどり着いてくれるだろう。




 俺は、あのとき死んでいたかもしれない人間だ、今さら命なんて惜しくない。

 青白く光るディスプレイは、大東亜ネットの核心近くに接続されたことを知らせた。





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