【16】
 
 
 狙撃銃の射程範囲からは、外れただろうか――。
 成瀬明日香の銃口から逃げるため、ハルは廃校の校庭から正面に見えていた小さな山の中へと分け入っていた。
 途中で気づいたのだが、この山はお寺の敷地の一部らしく、1m幅の山道が続く先を見上げると、木々の間から本堂のものらしい古い瓦屋根が見えた。急勾配には石段が敷かれており、駆け登るには相当の筋力と精神力が必要だろう。あの廃校がまだ活気に溢れていた頃にはきっと、運動部にとって格好の鍛錬場となっていたに違いない。
 野球部やサッカー部の連中が、苦痛に顔を歪めながらも頂上まで競争する在りし日の様子が浮かんできてノスタルジックに浸る。陽の落ちかけた林の中、ハルはほんの少し、たった数十時間前まで自分もそんな日常に居たことを思い出した。が、すぐ打ち消した。
 俺の脳はまさか、この現実から逃避しようとしてるんじゃないだろうな?ハルは皮肉っぽく笑った。今の現実を直視しろ、そしてよく考えろ。
 成瀬のライフルは、軍用でよく使われているレミントン社製のものだった。この国では比較的ポピュラーなライフルだ。最大射程は800M程度あるだろうが、初めて銃に触れる人間が、その射程を活かしきれるわけがない。
 先刻、400Mほどの距離をものともせず桑原を見事撃ち抜いたのは、ビギナーズラックに決まっている。それに、あの大きさではずいぶん重い。移動速度も通常の彼女のそれより遅いだろう。しかし、運動神経がよくて、勘もいい彼女のことだ。しばらくすれば銃の取り扱いにも慣れ本当に狙ったところを撃てるようになるに違いない。
 まあそれでも、女の体力は所詮知れている。しかも、体育はサボリがちで煙草もヘビーだ。何より、成瀬が「1人を執拗に追いかけまわして殺す」というシチュエーションが、ハルには想像できなかった。彼女が物事に対して、そんなに執着するとは思えない。彼女はいつもどこか怠惰なオーラを身にまとっていて、半歩控えたところで皆を静観しているようなところがあった。同級の女子たちの、あの少し浮いた明るさはなく、ドライで大人びている。それが、成瀬明日香の印象だった。
 
 階段を注意深く登っていると、急に木々が途切れて視界が開け、だいぶ後ろから登ってくる人影に気づいた。一瞬、成瀬かと思いどきりとしたが学ラン姿だった。まだかなり距離はあったが、歩いていたその人影もほぼ同時にハルに気づいた。すぐに身を隠すことも出来たが、その相手が遠藤昌樹だったことでハルの警戒心は緩んだ。
「千堂くーーん!」
 彼は嬉しそうに目を輝かせて、大きく手を振った。
 ハルが成瀬を伴ってあの廃校を離れてから、20分ほど後に出発したはずの昌樹がこうして追いつくには、迷わずこの山に入りひたすら走って登ってきたに違いない。成瀬に見つかっていたとしたらただでは済まないはずなので、運よく遭遇しなかったらしい。
 成瀬が標的として認識したハルを追ったか、または自分と同じように武器を持った誰かに遭遇しないように身を隠したかもしれない。あれから銃声が聞こえないこと、そして昌樹が成瀬に会わなかったことからすれば、彼女はこの山には入らず別の方向へ移動したかもしれない。
 昌樹が駆け上がってくる間、ハルはあらゆる可能性を考えたが、正解はわからなかった。
「ああよかったー、ひとりだと、心細くて」
 肩を上下に動かして、ぜえぜえと大きく息をしながら昌樹が笑った。小学生のような外見に、これまた小学生のように純粋な彼は、この状況下でも屈託なくハルに信頼を寄せた。
 そんな昌樹とは反対に、ハルの神経は少しばかり尖っていたが、昌樹がそれに気づくことはなかった。
「早かったな。疲れたろ?」
 まるで遠足みたいにのんきな台詞だ。
「うん、ちょっとだけ!ねえ、よかったら一緒に」
 その後の言葉は続かなかった。はあはあ、という荒い息遣いだけになり、昌樹は困惑顔で首をかしげた。「一緒に」どうしようというのだろう。逃げよう?戦おう?続く言葉は見つからなかった。でも、何か言わずにいられなかった。恐怖を紛らわすためか、昌樹は間を空けず話し続ける。
「あ、ねえねえ、千堂くんの武器はなんだった?僕のはね、」
 昌樹は慌ててごそごそと鞄を探り始めた。今までたった一人で山中を彷徨い歩き、不安だった昌樹にとって、今一番大事なことは心の許せる友に会えたことだった。
 ダァァアンッ
 聞こえた銃声は、聞きなれたあのライフルの音だった。さっきよりも小さく聞こえるのは、距離が離れているせいだろう。成瀬もとうとう同じ山の中に入ってきたらしい。身を隠している誰かをあぶりだそうとするような威嚇射撃だった。
 銃声が聞こえた瞬間、身を伏せたハルとは対照的に昌樹は驚いて足を滑らせた。
「うぅ…っわ」
「昌樹?!」
 低い姿勢で顔だけを上げたハルは、昌樹が体制を崩して階段脇の雑木林を背中で滑り落ちていくのを見た。ザザザーーーーッと枝葉が激しく擦れる音がして、昌樹は30メートルほど下の茂みへと消えた。
「昌樹?聞こえるか?おい、昌樹?」
 抑えた声で、呼びかける。ここで大声を上げるのは、狙撃主に自分の居場所を知らせるだけだ。
 そのままハルは昌樹が何か行動するのをじっと待ったが、茂みから彼が這い出してくることはなく、動く気配もなかった。おそらく気を失ってしまったんだろう。
 成瀬が山を登ってくる可能性がある以上、長くはここにいられなかった。
 どうする。どうしたらいい。気を失った昌樹をかついで、一緒に逃げるというのか? 時間のない中で懸命に考えて出た答えはNOだった。でも、このまま昌樹を置いていくのは見捨てるようで良心が痛む。
 良心だって?かっこつけるなよ、俺。この先、昌樹と一緒に行動する自信がないくせに。いつかどこかで、彼を足手まといだと思ってしまうかもしれない。ああ結局、自分だけが可愛いんじゃないか。
 それでも。ただ1人だけしか生き残れないルールの中で、自分の命より優先させられる誰かが居るとしたなら――ごめん。それは昌樹じゃない。
 
 まだ相当離れているだろうが、今は一刻も早く、彼女のスコープに映し出されない場所に離れるのが賢明だった。
 そして、気を失って無防備な昌樹が居ることに気づかせないことも。
 
「昌樹、誰にも見つかるなよ」
 祈りにも似た言葉を残して、ハルは全速力で尾根沿いに続く石段を駆け登った。途中、わざと木の枝を叩いて揺らし、狙撃主に獲物が遠ざかっていることを知らせた。スコープを覗く目が自分を追っているのかどうかまではわからなかったけれど、とにかく。元の場所にはもう誰も居ないのだという情報を伝えたかった。
 一度だけ、昌樹が横たわっているだろう茂みを振り返ったが、見捨てる自分の非力さを悔いるだけだった。







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