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 静岡県の東部に位置する芙蓉市は、霊峰富士が目前に控える大東亜の国内でも屈指の観光名所だ。温泉や景観に優れた伊豆半島にもほど近く、自然美溢れる暮らしやすい土地である。
 2000年4月の第3木曜日のこの日、芙蓉市立次郎丸中学校の校庭には、朝早くから大勢の生徒で賑わっていた。まだ、7時を少し過ぎたところで、いつもなら生徒の姿もまばらなのだが、今日はそのほとんどが顔を揃えている。それもそのはず、この日はハルのバス遠足が予定されていたからだ。
 芙蓉市は「自然教育」とやらに力を注いでいて、この遠足も4月20日、21日を使って1泊2日とゴージャスである。各学年にそれぞれ30名程度が10クラスある次郎丸中学校は、この少子化社会ではマンモス校と呼べるだろう。校庭に並む30台のバスはまさに圧巻だった。
 『中3-No.5』というプレートが掲げられたバスの内側から窓越しに、千堂春(せんどうはる/男子7番/3年9組)は続々と正門をくぐってくる生徒を眺めていた。集合時間まではあと15分。どのバスにも、たいてい8割程度の生徒が乗車しているのが見える。あと1割は時間ぎりぎり、そして残りの1割程度は遅刻するんだろうな。
 そんなことを考えながらぼんやりしていたハルの耳に、甲高い声が飛び込んできた。
「おっはよ〜!梅ちゃん、久しぶり〜っ」
 朝からテンションの高いこの少女は、蓮見涼子(はすみりょうこ/女子13番/3年4組)。陸上で鍛えた軽やかな足取りで梅原幸治(うめはらこうじ/男子2番/3年5組)に抱きついた。彼女はこんなふうに無邪気に、年頃の男の子がクラッとするようなことを平気でしてみせる。抱きつかれた衝撃で、梅原が持っていた【中3-No.5/元2年5組の生徒は乗車してください】と書かれたプラカードが不安定にぐらぐらと揺れた。小柄で華奢な梅原にはプラカードが少し大きいからかもしれないが。
「ちょ…ちょっと、涼子さん、ここ、困るよ」
「あはは、ごめんごめん! 梅ちゃんが学級委員だったな〜って思ったらつい懐かしくなっちゃったんだもーん」
 涼子は、たれ気味の目が甘い印象を与える人懐こい笑顔を見せた。
「そんな、大げさな…つい2〜3ヶ月前の話なんだから」
 梅原はやや高い頬骨のあたりを少し赤らめながら、早くバスに乗ってくれと、涼子を促がす。
「おーやってるやってる。梅ちゃんは相変わらず真面目だなー」
 また別の声が聞こえた。今度は男子生徒だった。涼子はそちらへ明るい笑顔を向けて、梅原の腕に絡めていた手を離した。
「あ。悠クン!拓クン! おっはよー!」
 お調子者の野々山悠(ののやまゆう/男子12番/3年4組)楢橋拓斗(ならはしたくと/男子11番/3年5組)のコンビが肩を並べて登場したので、去年の苦労がどっと蘇る。梅原は苦笑いを浮かべた。
「おはよう。頼むから問題起こさないでくれよ」
持っていたプラカードで拓斗と悠樹の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「はいはい〜またまた宜しくね〜委員長さま!」
「梅ちゃ〜ん、旅行中はかたいこと言いっこなしよ」
 ふたりはからかうように言い残して、涼子のあとに続いてバスの中へと入っていく。ハルも乗るこのバスには、【No.05 元2年5組ご一行様】と書かれたカードが揺れていた。梅原が持っているプラカード、そしてバスの表示が なぜ「元」なのかというと、少々面倒でやっかいな、次郎丸中学校独特の慣わしがそこにあった。
 この次郎丸中学校では「隔たりのない学校」とかなんとかいう、たいそうなスローガンを掲げている。しかしながら、進級時に毎年クラス替えを実施しているため、10クラスもある大所帯では、そのたびに新旧友人がごっそり総入換えとなるのが常だった。
 クラス替えのたびに友だちが変わるのでは、真の友情は育めない――なんてことを考えた学校のお偉いさんたちは、行事ごとに、【所属クラスのシャッフルを行う】という、一風変わったシステムを考え出したのだ。例えば「勉強合宿は一年次のクラス」、「体育祭は現在所属しているクラス」などというように、行事ごとでクラス割を変更するわけだ。
 そんな面倒なことをしてまでスローガンとやらを守る必要があるのかどうか――そのあたりはよくわからないけれども、当の生徒たちはそれを大いに楽しんでいるようなので万事オーケイ、恒例となって今に至るのである。
 今回の春の遠足では「昨年度のクラスで参加」が採用されたので、本来ならば3年1組から10組を乗せるはずだった10台のバスには、元2年1組から10組までが乗ることになった。結果、現在3年5組の梅原が、3年4組の涼子が、そして3年9組のハルが同じバスに集合したわけだ。
 クラスをシャッフルした3年生徒たちを乗せたバスは、午前7:30に学校を出発し、伊豆半島の中央部に位置する北翠湖に向かう予定である。
 突如、正門のあたりが騒がしくなった。ややあって学年主任の怒鳴り声がした。
「こら中嶋ぁーっ 自転車登校はするなって言っただろー!」
 なんだよあいつ、また怒られてやがる。苦笑しながらハルは視線を動かして、たった今怒鳴られたばかりの中嶋龍吾(なかじまりゅうご/男子10番/3年1組)の姿を探した。
「センセー、遅刻しなかっただけいいだろー」
 悪びれず無邪気に笑うその様子に、ハルもつられて笑った。ふと、彼の背後から顔を出した女子の姿に気づいて、ハルは反射的に目を逸らす。龍吾の自転車に揺られて一緒に登校してきたのは舘脇律子(たてわきりつこ/女子11番/3年3組)に違いない。
「ふたり乗りは禁止だーーー!」
 先生はさらに大声を張り上げるが、龍吾はいつものことながら真剣になんて聞いちゃいない。怒られているというより、まるでじゃれあっているようにさえ見える。龍吾は、乗せてきた律子が自転車を降りるまでその車体を支えている。そんな彼女に向かって、先生が教師らしからぬ暴言を吐いた。
「舘脇、こんなヤツと付き合ってるとろくなことないぞ」
 気づけばハルの視線はまっすぐに律子を捕らえていた。
「先生、実はあたしもそう思いまーす」
 屈託ない爽やかな笑顔で、茶化すように答える彼女が眩しかった。
「おまえ、ひでえ!」
 顔を歪めて笑う龍吾をちらり見てからやっと、ハルの視線はバスの中に戻った。座席に深くもたれて座り、安っぽいシャンデリア風の飾りがついた天井を見上げる。3年になって別々のクラスに分かれたあの2人も、もうすぐこのバスに乗り込んでくるだろう。
 車内のデジタル時計は、午前7時22分を表示していた。




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