【03】



 時間は午前8時45分を回った頃、道中はいたって順調だった。10台のバスは揃って東名高速道路沼津インターチェンジを降りたあと、国道464号を南下していた。
 ハルの斜め前方で、榎本香織が座席から身を乗り出すのが見えた。
「はい、聖名、おすそわけ!食べなよ」
 すぐ後ろに座る五十嵐聖名にポッキーの箱を差し出した。聖名の返事は聞こえなかったが、彼女の指がポッキーをつまんだのは見えた。そして香織はその体勢のまま、2人は顔を寄せ合い話し始めた。クラスメイトの話し声や体に伝わる路面の振動音、そういったものに遮られて、2人が何を話しているのかはわからない。おしゃべりとお菓子、女子の必需品だな。思いながらハルは少し笑った。もちろん特に聞くつもりはなかったし聞きたいとも思わなかったが、ちょっと頓狂な、香織のその声が聞こえてからは少し違った。
「は?何言ってんの。岳ちゃんの握手なんて珍しくないじゃん」
 岳センの、握手?ハルは今朝登校した際の、朝比奈の様子を思い出してみた。10台のバスに散り散りに乗車していく3年5組の生徒たち一人一人に握手して、笑顔で送り出す。いつもとなんら変わりない朝比奈の姿がそこにあった。
「今日の岳ちゃん、なんか変じゃなかった?」
 ハルの思考の一歩先を、聖名の声が行く。彼は比較的歳が若いせいかわりと話しのわかる教師で、生徒からは「岳ちゃん」と呼ばれている。中肉中背でなかなかのハンサム、おまけに独身とくれば憧れる女子も少なくない。香織と聖名もその類か…?と思いながらも、ハルは何か少し引っかかるものを感じていた。
「お。それって、もしかして岳ちゃんがいなくて寂しいって言ってる?」
 茶化す香織を、「ばか、違うって」と聖名が即座に否定した。
「いくら自分が引率できないからって言ってもさ、なんか今朝の握手はやっぱりちょっと違った気がするんだよねー」
 聖名はそう言って、もう一本ポッキーをほおばった。
「そりゃ今回、岳ちゃんお留守番だから、心配だったんじゃないの」
 聖名は考えすぎで、香織のいうとおりかもしれない。下校時刻、正門を閉める当番が朝比奈だと、さよならの挨拶と一緒に握手するのが当たり前だった。放課後の廊下で、下駄箱で、偶然ばったり会ったときにも。それぐらい、朝比奈の握手は日常的だったから。
「まあね。考えすぎたかなー。岳ちゃんて、変なトコ真面目だからさ」
「あらら?やっぱり聖名ってば岳ちゃんに惚れちゃってるんじゃないの」
「だーかーら。それはないって言ってるっしょ」
「自分の胸に手をあててよーく考えてごらん?」
 香織はポッキーをくるくると回しながら聖名の鼻先を指し示す。きゃあきゃあと、黄色い声を上げてはしゃぎ始めた2人を他所に、ハルは胸につかえた何かを探っていた。
 本当に、考えすぎなのか?
 視線を感じてふと顔を上げると、香織と目があった。聞く気がなかったとは言え、結果的には盗み聞きのような形になってしまったために、ハルは少しの気まずさを覚えた。当然香織のほうはそんなこと露とも知らない。
「何よ千堂、怖い顔して。あ。もしかして、ポッキー食べたいとか?」
 もちろんハルは全然違うことを考えていたのだけれど、「はいよ」と間髪いれずに差し出されて断る隙もなく、ポッキーを数本つまんだ。
「さんきゅ」
 香織はハルの隣りでまどろみ始めていた渡辺結貴(わたなべゆたか/男子15番)にも強引にポッキーを握らせた後、再び聖名との雑談に花を咲かせた。時折、聖名の肩にもたれてすやすやと寝息をたてている麻生友香にちょっかいを出しては、聖名にたしなめられながら。
 
 
 
 
 ……ト トン トトトン 
 うるさいな、誰だよ、リズムとってんの?
 …トトトトン トトン
 どこか遠く響くノック音は、規則的であるような不規則さでハルの聴覚を刺激した。この音はたぶん、常日頃肌身はなさずヘッドフォンを付けて歩いている滝沢秀臣(たきざわひでおみ/男子8番)の足がとるリズムのそれに違いない。
 お前に聞こえてる音楽、こっちには聞こえてないんだよ。一発頭でも叩いてやろうかと考えて、初めて気づいた――いつのまにか眠っていた?あの、昼寝から徐々に覚めるときの倦怠感に襲われている。
 仕方ないって。バスの揺れって心地いいんだよ。
 なんとなく心の中で言い訳をしながら目を開けようとした。が、瞼がとても重くて上手くいかない。ぼんやりした頭は重く鈍痛を帯びていた。と同時に感じた違和感にひやりとする。誰の声も聞こえない。バスの中が静まり返っている。反応の鈍い瞼をなんとか持ち上げ、ようやく薄っすら目を開けたとき―――視界の中にいる、すべての生徒が眠っているのを確認した。
 車窓の景色は流れていて、つまりバスは走っていることを意味していた。前に居る香織の足が、力なく通路側に投げ出されている。その足は悪路に影響されて軽く宙に浮いては落ちる――トトンッ。ああ、この音だ。ハルの眠りを妨げた音の主だった。その向こうに見える肘当てからずれた腕は律子のものだろう、いつも付けている左手のブレスレットが揺れている。
 後ろを振り向こうと少し頭を動かしてみると、ぐわんと脳みそ全体が揺れた気がした。視界は暗く狭く――それでもなんとかとらえたそこに映し出されたのは、――やはり寝顔だけだった。目を瞑ったクラスメイトの顔、脱力してうな垂れる姿。
 なぜだ?バスに居る全員(もちろん運転手を除いて)が1人残らず眠っている?
 ハルの奥底ではすでに、自問に対する答えが出ていた。薄く濁った視界に広がる異常な光景。どくどくと心臓が早打ち、その音が頭に響く。妙な焦燥感が次第に胸を満たしていく。打ち消しても打ち消しても脳裏に浮かぶのは、考えたくもない最悪のシナリオ。ハルの額に、じんわりと脂汗が滲んだ。
 
 ダメだ、眠るな。眠るな。起きろ。誰か、誰でもいい…
 
 ハルの瞼はその意思に反して、再びゆっくり閉じられた。






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