【04】



 ハルの体より先に脳が目覚めた。
 最初は、くぐもった音だった。そのうちに誰かが話をしているんだとわかった。
「おかしいなあ。欠席者は居ないはずなのに、生徒の数が合わない」
 聞きなれない若い男の声。
「ねえあんた、誰?」
 続いて聞こえたのは滝沢秀臣の訝しげな声だった。ハルよりも先に目覚めたのは、彼ひとりらしかった。
「なあ、誰だよ?」
「ちょっと君、静かにしていてくれないかな?」
 再び先ほどの男の声がした。ハルは鈍い痛みが走る頭を持ち上げようとしたが上手くいかない。仕方なく諦めて瞼だけをなんとか持ち上げた。教壇に、知らない男が立っていた。
「応えろよ。誰だって聞いてんだろ?」
 秀臣もたぶん目覚めたばかりだろう。いまいちろれつが回っていないのは、気のせいじゃないと思う。穏やかに笑む男は手元の資料と秀臣とを交互に見比べながら、彼の質問にやっと答えた。
「僕は今日から君たちの担任だ。悪いけど、今ちょっと忙しいから黙っててくれないかな。質問は後でまとめて聞くから」
 軽くあしらわれた秀臣は不満そうだったが、仕方なく口をつぐんだ。
 体が重い。自分は机に突っ伏しているようだ。ハルはなんとか見渡せる範囲の景色を確認する。とりあえず今居るのは、どこだかわからない学校の教室。秀臣が、廊下側の最前列に座り、男を睨みつけていた。その周りには、自分と同じように机に顔を伏せたクラスメイトたち。力なく手足が投げ出されているところを見ると、皆眠っているんだろう。
 斜め前方の机に、突っ伏して眠る館脇律子の首に光るものを認めた。首にぴったりと巻きついている。予想外に太い金属は、まるでまるで首輪みたいで――ハルの思考がひんやり冷えた。そしてゆっくりと腕を動かし、自分の首筋に手を這わせた。ああ、ちくしょう。冷たい金属の感触が指を伝った。眠る前、いや意識を失う前に感じたあの胸騒ぎはやはり――。
 ガタリと、低い音が響いた。秀臣が急に立ち上がり、その勢いでイスが後ろへ倒れたのだ。秀臣は手当たり次第、近くにいる生徒を揺すり始めた。
「おい。起きろよ」
 秀臣の額に脂汗が光っていた。なあ、俺たちさっきまで、バスに揺られていたじゃないか。いつものように、拓斗たちが騒いでいて――そう、遠足の途中だったのに。
 焦る秀臣に、落ち着けと言ってやりたかったが、声はまだ出ない。ハルは、鼓動に合わせるようにして痛むこめかみをぐっと抑えた。
「僕はさっき、静かにしてくれ、と言ったよね?」
 先ほど、男と名乗った男の声がした。今度はほんの少しの苛立ちを伴っている。
 この状態が暗示する何かに気づいた秀臣は、男の動きにびくりと敏感に反応した。
「数が合わなくて、苛々しているんだ。これ以上仕事を増やしたらいくら温厚な僕でも怒るよ?」
「か、…数?」
「そう、生徒の数。君達3年5組は35名のはずなんだけど、32人しかいない」
 眉間にシワを寄せたまま、男が言った。
「は?5組?俺は、3年3組だぜ…?」
 呆けたような秀臣が発したその言葉に、男の眉がぴくり動いた。
「3組?」
「ああ。俺は、3年3組男子10番、滝沢秀臣」
 話が見えないというような秀臣の態度とは裏腹に、男はぴりと神経質に顔を歪めた。素早く携帯電話を取り出して、短縮ダイヤルかなにかで…とにかくそれはどこかへ繋がり、男は怪訝そうに声をひそめて話し始めた。ぼそぼそという会話がハルの耳まで届いてきたが、内容までは聞き取れなかった。
「なるほど」
 電話を切った男はそう言ってにっこりと笑ってみせた。
 男の顔は晴れ晴れとしていて、逆に秀臣は青ざめていた。すぐに、ドアが乱暴に開けられて、完全武装した兵士らしき男が教室に入ってきた。
 兵士らしき男は、ぴっしりと丁寧な敬礼をしてから無言で男に資料を差し出す。
「新しい資料だね、ありがとう」
 言葉を受けて、男が再び礼儀正しく敬礼をして去るまでの間、秀臣は口を開けてただ見ていた。微塵も動けずにただ、見ていた。
 男の目が、その蝋人形のように灰色の秀臣をまっすぐにとらえた。
「おめでとう。君達はたった今、戦闘実験プログラム68番第3号に正式に選ばれたよ」
「ぷ……ぷろっ、プログラム?」
 まるで脊髄反射のように、秀臣の口が考えるより先に動いた。ごくりと、唾を飲み込む。その直後、舌から食道にかけての湿気が一気に渇いてパリパリになった。まるで、フルマラソンを走り終えたみたいに――いや、実際走ったことはないけれど。
 ハルは、両腕に力を込める。膿んだ脳みそは、だんだんと感覚を取り戻し始めた。いまいち力の入らない両腕を支えに、ハルは机からゆっくりと重い体を引き剥がした。何がおめでとうだよ、くそやろう。
 秀臣の頭の中では、ひとつの忌まわしい単語だけがものすごい勢いで駆け回っていた。まるで色を失ったような世界に取り残された秀臣とは反対に、今やっとハルの世界が蘇った。今度こそ本当に、ハルの神経は覚醒した。そして――初めてまっすぐに、男という男の顔を見た。






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