【09】



 スタートを務めた川地智子が出発してから数分後、いつもよりやや速度を上げた足取りでハルが教室を出た。
 廊下を歩く間に、ハルは手早くデイバッグの中を確認した。私物である学校指定のバックには、まあ2日分の着替えが詰まっていたぐらいでたいした量はなく、支給されたデイバックの隙間に入った。今後のことを考えれば荷物はひとつのほうが断然いい。同じく支給された腕時計は耐ショック性らしいダイヴァーズウォッチで、暗がりでは文字盤が光る。たいして趣味がいいともいえないそれを、あまり乗り気ではなかったが早々に身につけておいた。時間だって、正確に知っておいた方がいいだろう。午後1時10分45秒、まだまだ陽は高い。
 幸い当たりの部類――それも特上だった武器――ベレッタM8000には早速マガジンを装着して制服の下へと忍ばせてある。出会い頭に引き金をひくような真似はしたくなかったが、この異常な状況下ではとりあえず護身用に身に付けておくのが無難だと思った。
 校庭にでた途端、眩しさに思わず目を細めた。明順応を起こした目の奥に軽い圧力を感じながら、右手を掲げて陽の光を遮った。人の気配はなし、か。
 校庭にはもちろん、水道の脇や植え込みの陰などにも人のいる気配はしなかった。最初の出発からわずか10分ほど経っただけというのに、この辺りにはもう誰もいないようだった。身を隠す場所などほとんどない校庭、そして何よりこの明るさ。とっとと離れたほうが賢明だということぐらいすぐにわかる。要するにみな、逃げたのだ。当然とはいえ、その事実はあまりにもリアルだった。
 ハルは、制服の内ポケットから煙草を取り出し火をつけた。嗅ぎ慣れた煙の匂いに、いつもより少し早打っていた鼓動が落ち着いた気がした。きょう日の中学生、これぐらいじゃ不良とかなんとかいう部類じゃないだろう?
 校庭を横切る間、そこにいくつかの足跡が残っていることに気がついた。それだけでは、男子のものなのか女子のものなのか判別は不可能だったけれど、蹴散らされた砂のストライドが表していたものは駆け抜ける彼らの速度。全速力だな、こいつは。ハルは寂しげに苦笑した。
 突如、背後から甲高い叫び声がしてハルは思わず振り返った。同時に、パンッパンッッと乾いた音がして――ああ、これは銃声だ――白く煙が上がるのが見えた。状況からして、ハルのすぐ後に出発した佐伯麻由美(さえきまゆみ/女子7番)に間違いない。
 振り向きざま、連射の反動に耐えられなかった彼女の体が大きく後ろへバランスを崩したのが見えた。彼女が両手で構えていたのは、小さな銃だった。彼女はすぐに体制を立て直し、ふたたびそれを構えた。細長いという形容がぴったりの麻由美が携えた銃身から覗く黒く小さな穴――ちくしょう、なんて嫌な景色だ。 どうする、撃つか? ハルは背中に手をまわし、ベレッタに触れた。しかし、それを引き抜くのは躊躇われた。「殺す」ことがルールのこのゲームの中、甘いと言われても仕方ない。わかっていても、良心が邪魔をするっていうのが普通だろうが。
「ち」
 ハルは言い訳じみた思考に苦笑しながら、ベレッタから手を離した。くわえていた煙草を吐き捨て、まっすぐに駆けていたルートを大きく左へ方向を変えながら速度をあげる。低いフェンスを越えた向こう側、うっそうと木々が茂るその場所をとりあえず目指した。
  走りながら、ちらちらと級友たちの顔が浮かんだ。合流を考えてはみるけれど…こうなるとそれまで無事に待てるかどうかも怪しいぜ。
「くっ」
 ハルはひらりとフェンスを越えて、茂みに飛び込んだ。
 ザ――ザザッ 茂みの中、ハルは傾斜を駆け上がっていた。外から見たときはわからなかったが、この茂みは少し小高くなっているようで、校庭の様子がよく見える。ハルは、ちょうど校庭全体がうまく見渡せる場所に着いたとき、走るのを止めた。昇降口から出てすぐ辺り、へなへなとしゃがみこむ麻由美が居た。ハルの姿が視界から消えたことで、緊張の糸が解けたんだろう、力なくへたり込む彼女の肩は大きく揺れていて、泣いているように見えた。
 撃たなくて良かった。まず思ったのはそれだった。そして、我ながらその矛盾に可笑しさが込み上げてくる。冷静でいるつもりでも、俺はちゃんとやる気なんだな。制服の下にある銃の重みに安心する自分がいることを、ハルは気づいていた。




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